そして、サイエンスコミュニケーターとして
8月末に書いて、アップしあぐねていたものに、一部、加筆。
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久しぶりに、なのか、サイエンスコミュニケーションのことを書こうと思います。半年くらいで、なぜか急激に手あかにまみれたような言葉になった感じもあります。自らを、サイエンスコミュニケーターじゃない、とわざわざ言う人もいるみたいです。震災と原子力発電所の事態(この二つは、決して、一つの事象ではないのです、僕にとって)にあたって、急激にバッシングがあって、というようなことも聞きました。仙台で、医学系研究科の広報を務めた身には及ばなかった面もありますが、読んでいて、いくつか応えたものもありました。
最近は、2度目を迎えたサイエンスイラストレーションスクールが先週終了したり、相当な準備をしている日本神経科学大会とその関連の行事が間近に控えていたり、言うべきことはたくさんあるのですが、それらは、もうちょっと待って(って、書く日が来るのか)。
瀬名さんの本や論考を読んでいます。ちょっと前に、ハヤカワ文庫で出た「希望」、それから、数日前に出た作品社からの「3・11の未来 日本・SF・創造力」の中の「SFの無責任さについて」。
半端な引用をすると、かえって誤解を呼びそうで、なので、本「希望」(2011年初版)の中の中篇「希望」293-294ページと書いておきます。サイエンスコミュニケーションをめぐる状況が端的に批判されていますが、
“科学界の多くの人々は公衆の科学理解を増進させたいと願っているが、実際の関心はおそらく、科学に対する公衆の評価を高めることや、自分と自分の仲間の社会的地位を高めることにある。” (—Gregory & Miller, 1998 ストックルマイヤー他、佐々木他訳の「サイエンス・コミュニケーション―科学を伝える人の理論と実践」の序文から孫引き) という僕がよくひいていたことに、更に、如実な経済的な状況が付加されている、といったところでしょうか。
「SFの無責任さについて」の中でも、サイエンスコミュニケーションへの言及はありますが、こちらは、その部分よりも、震災とその後についての仙台からの言説が、刺さりました。東京を中心とする首都圏に対して、自分ではなかなか言葉にできずに言えなかったことが、明確に言語化されていました。論考の後半部分は、やはりSF論なのですが、前半部分は特に、SF論を超えて、広く読まれてしかるべきものです。それを、先に言語化されたことに対して、とても大きな敬意と、とても僭越ながら少しばかりの「先にやられてしまった」感と、そして、広く読まれるべきだと感じるのに、このSF関係者しか想定していなさそうな媒体なのはなぜだろう、という思いとを感じています。
さて。
地震と、津波を受けた、沿岸部の壊れた風景の中で、僕らは立ち尽くしました。
僕らは、地震を予知できたでしょうか? いいえ。
地震学者たちは地震を予知できたでしょうか? いいえ。
僕らは、地震学者たちが地震を予知できると思っていたでしょうか? いいえ。
僕らは、地震学者たちが地震を予知できない、ということを知りながら、それを広く伝えたでしょうか? いいえ。
津波はどうでしょうか?予知できたでしょうか? いいえ。全く。
津波の予報や警告はわかりやすいものだったでしょうか? いいえ。
そして、喧騒うずまく、原子力発電所事故とその後の中で、ますます立ち尽くしました。 (この辺から、最近加筆です、8月末でなく)
僕らは、事故の可能性を警告していたでしょうか? いいえ。
僕らは、事故後、情報を伝えることに役だったでしょうか? いいえ、あまり。
上で、僕ら、というのは、サイエンスコミュニケーター、として、というわけです。予知を僕ら自身ができたか、という設問はともかくとして。近年、育成が政策的に進められたこともあり、やはり、急場には役に立たない、という批判も見受けたように思います。特に原子力発電所事故の急場においては、矢継ぎ早な解説を求められたりしても、初歩的な教科書以上のことを言えなかったり。
サイエンスコミュニケーターという言葉で括られる中に、決して多くの人間はおらず、恐らく、研究者というカテゴリーの中にいる人よりも、3桁少ない数だし、など、いいえの理由を連ねることはいくらでもできます。言い訳を連ねるよりも、―
長神個人としては、東北にいる、ということもあって、そういう批判そのものの矢が直接向いてくる感じがなかったし、最初の3か月はそれなりにやったような気になって、そのまま真夏のサイエンスイラストレーションサマースクールと、その後の神経科学大会の準備に突入してしまって、一気に、「例年通り」に戻ってしまいかねないところにいます。
自分ができることをやる、という言葉がそこかしこで聞かれました。
自分自身振り返って、5月までは震災モードで格別にやれることはやったし、その後については、まさしく、その言葉通り、できることをやる、をやった、とは思います。しかし、敢えて言えば、それは言い訳かも知れないと思うのです。普段でもやったであろうことをやっただけのことは、できないことの言い訳ではないのか、と。
何度か、関東・関西の知人・友人を被災地に案内して、一様に、沈黙に入ったまま、それがアウトプットとして何も出てこないことに苛立ちも感じました。要するに、自分に向いた刃を、他人に仮託していたわけです。
8月20日に再訪した閖上の風景をおもいます。
人々を、特に外国からの人々を案内しながら、写真を撮る人々の中で、シャッターを切れない自分の内側にあったものに、血肉を与えることを何とかしようと思います。
やっぱり長期戦です。 そう、内側も。