Archive for 6 月, 2009

影響/対抗

月曜日, 6 月 29th, 2009

昨秋、急遽前日に日程を調整して図書館総合展に行ったのは、第2回のARGカフェで喋るためではなく、NIMSのブースに行くためだった。数か月でいろいろと考えていたことと、それなりにシンクロすることが、eSciDocなんでないか?と、知人に教えてもらい。そこからARGカフェに至る人のつながりの奇怪で絶妙なループは、すでにぼつぼつ喋ったし、いずれちゃんと書くから、措いておこう。NIMSのブースで手に入れたのは、eSciDocのパンフもそうだけれど、幾つかの妙な別刷りだった。「セレンディピティを高めるプレゼンテーション技術」。材料系の和文学会誌に、コラム的に連載されたものだけれど、こういう第一話法、というか、自分はこうしたこうしたおかげでこうなりました、で惹きつけて、それが、すぐれて、研究者によるサイエンスコミュニケーションの勧めになっている、そんなものに初めて出会って面白かった。これは著者を覚えておかないと、と思いつつ、すでに彼のトークが終わっていることにがっかりし、また、それでも紹介してくれた、ブースの人に感謝した。

それから、半年。

年末の学会で、謝金なし、交通費なし、場所は関西、で東京の人に講演をお願いした相手から、講演依頼を頂いた。断れる訳がない。それがSparcの講演だったわけだけれど、頂いたそばから、誰から頼まれようがこれは断る手はない、と思った。もう一人の演者が、その別刷りの著者じゃないか。
準備の過程から影響を受ける。タイトルも要旨も、自分が出すよりも早く(かと言って、自分が締め切りに遅れたわけではないが)、Ccされて、事務局に送られるから、否が応でも、こちらはそれに引きずられる。「だからセルフアーカイビングはやめられない!」。こんなタイトルを先に提示されて、当初、用意し始めていた「図書館とサイエンスコミュニケーション」という、1年近く前の論文そのままのタイトルを変更する。その後も、先方は全くそんなことはないと思うが、こちらは、向こうに引っ張られながら進む。しばらくなかった経験だ。

セルフアーカイビングの重要性を、表面的に言うことはたやすい。やってみよう、と軽く勧めることもたやすい。やって、どうなったかの実例を、コストベネフィット交えて見せられる、というのは、並大抵でない。あぁ、俺、やってないじゃん、と、講演を聞きながら思わされる。うまくいけば決定打になる提案も含まれる。論文作成支援のプラットフォームと同居させて連動させることができるか、と。きわめてinformativeだ。

  共登壇者: 轟眞市先生(NIMS)
    website: http://www.geocities.jp/tokyo_1406/node4.html
    最近の活動(http://www.geocities.jp/tokyo_1406/node5.html#link:informatics)にある、セレンディピティ論の項目から、大抵のものが、読めるようにアーカイブされている。

 Sparc Japan セミナー 2009年度第1回 090625
 http://www.nii.ac.jp/sparc/event/2009/20090625.html
 上記サイトで、配布資料まで公開している。

No more fly

土曜日, 6 月 27th, 2009

奴はもう飛べない、奴はもう年老いた、そう言ってくれ。
Just do it.
選手生活の晩年で出演した、Nike社のテレビCMでの、マイケル・ジョーダン。もう15年か、それ以上前だと思うけれど、印象的だ。

マイケル・ジャクソンが生涯で出したのは、アルバム5枚。もう歌えない、もう、踊れない、と言われ続けて、復活を遂げようとしていたのだろうか、と想像する。

「アウェー」での勝負を、思う。実験科学者だけがいる場所、教育者と教育学者だけがいる場所、図書館関係者と情報学者ばかりがいる場所。今までの自分の論理だけでは通じない場所。厳しさと相対化を求めて。
机上の空論だと言ってくれ。現場を知らないからだ、それは違う、現実性がない、外野が言えることじゃない、と言って欲しい。必ず、面と向かって、一対一で。それが僕を次のステップに導くのだから。          

              Sparc Japan セミナー 090625@国立情報学研究所

送別の夜に

木曜日, 6 月 25th, 2009

前々職で、たしか、丸2年くらい苦楽を共にした人が退職するにあたって、ささやかな会を、って、単にサシで飯を食うだけなんですが、そういうことを企画するわけです。やめて3年になっても、そこで誰がなにをどうしているか、っていうことを、今まさにそこに勤めている人よりも詳しいくらいだっていうのは、どういうことなんだろう、とも思いながら、それはそれで自分の役回りとしてある意味で楽しいことであるわけで。

思えば、たくさん学んだ4年間でした。企画展を3つ、常設展を2コーナーか3コーナー、シンポジウムを10回くらい、トークイベントを10回くらい、大型の国際会議を1つ、大型映像をひとつ、ウェブコンテンツを少し、実験コースを一つ、実験キットを一つ、サイエンスカフェを少々、などなど、たった4年間で、これだけのことを、自分メインでやらせて頂けたなんて、と改めて思い出します。もう、そんなことはないんだろうな、あの職場にとっても、自分にとっても。恵まれた環境を、最大限に使わせて頂いた、と、かつての同僚の送別にあわせて思うのです。

そして今の自分があるんだと。

 僕は館外では館をほめ、館内ではぼろくそに言うので、館内の人は、僕がどれだけ館を想っているか、伝わってないのかも知れません。  

 有難うございます、と、あの館に、御恩は一生忘れずに、返し続けてます。

締切と創造性

水曜日, 6 月 24th, 2009

締切の存在を創造性の源にあげている人は複数いた。創造性かどうかはわからないけれど、間違いなく作るためのモチベーションになるのは確かだ。毎週、何種類、それこそ何十種類もの学術誌が刊行されていて、雑誌の格付けさえ気にしなければ、どこに出しても構わない、という分野と、せいぜい年に2回や4回の発行で、これを逃すと3ヶ月後、というような分野とでは、相当違う。自分は、締切がある方が性にあっている。3月中に書こうと思っていたものと、4月中に書こうと思っていたものが二つ、いまだに草稿のまま眠っている。

印刷の制作物。いよいよ、間もなく入稿しなければ、配布するイベントに間に合わない、というタイミング。あんまり陳腐なものを作るよりは制作を中止するか、と思った、その瞬間に思いつく。窓をあける、折る、つなげる、ずらす。などなど。あー、これならオリジナリティも高い、結構面白いものができるかな。で、更に、ここにこう、絵を入れたり写真いれたりすると、もっといけそう・・・。 ええ、間に合わないんですけど。

よくある話ではあるんだけど、じゃあ、締切の観念を前倒しすればいいのか、って、そううまくもいかない。

反射

火曜日, 6 月 23rd, 2009

おおかたが初めて会う人の集まりに参加するのに、名刺を忘れたのは、痛恨でしたが、そういう事態を何とか、逆に利用する、ということができたような気がするのです。20日(土)に名刺を頂いた方、全員に、何とか22日(月)のうちにメールを書くことができました。総勢、21人。多少、同じセクションの方々にまとめて書いたり、と、いうこともあったので、数としては10数通でしょうか。一人ひとり、思い出そうとしますが、どうしても、混線してしまい、こんがらがります。字面だけだと男女もわからないことも多く、一件、大失敗をしました。本当に情けなく申し訳ない。コミュニケーターの名折れです。
収穫は本当にたくさんあります。メールを書くことによって、それは、パーソナルコミュニケーションなので、個々人に対してアプローチすることになり、結果、ちょっとした挨拶や酒飲み話ではわからなかったことが出てきます。そうした中で、その方が積み上げていらしたことが、こちらから見ればかなり立派なサイエンスコミュニケーションの実践であったり、というようなこともあるわけで、それでいて、それらは、(あまり良い表現ではないけれど)私ども側には全く知られていなかったり、といったことがあるのです。また、何かに書かないといけません。書くことは発掘で、それは、日の光にさらすことです。ある程度の文章にまとめて、どこかに。

月曜の夜遅くに、ひとしきり書いたメールを最後にもう一度見直し、そして、今日、続々と頂く返事を、本当に真摯に書いて頂ける御返信を読んで、そこに映るのは、何でしょうか。それらが、真摯であればあるほど、さて、この人と、次に何ができるだろうか、と思うのです。反射して映るのは自分です。畢竟、僕は僕の仕事の中身に大した興味はない、サイエンスにも、サイエンスコミュニケーションにも、本質的に興味がないのかも知れません。もちろん、好きだし、大事なんですが。しかし、共に働き、働きかけ、そうして得られた、人間、人間の変化にだけ、僕は本当に執着できるように思えるのです。10以上の返信があって、それはいずれも、土曜にあった話だけでなく、今後のことを、語って下さっています。そうして、その中から、何が生まれるだろうかと、心底わくわくしている自分を感じるとき、至福の中にいるようです。

スンジエーネ

火曜日, 6 月 23rd, 2009

夏至前後。長雨のせいか、まったく実感がない。かぼちゃだ、ゆず湯だ、と冬至には何かと象徴もあるが、夏至にはない。気候のせいだろうか。なぜ、かぼちゃか、ゆず湯か、と問われれば、それなりの説明がある。保存がきく食品におけるビタミンの問題であったり、すぐれて生活科学の範疇だ。夏至にはない。キャンドルナイト、か。

夏至で何かないかと、急に思い出す。夏至の夜に、空が開く。エリアーデ。おそらく、15年ぶりか、それ以上でページを開く。よくまだ本棚にあったものだと思うが・・・。それにしても、全く想い出せない。どのページを開いても、ほぼ、記憶がない。解説も読んでみると、丁寧にあらすじが書かれているが、これを読んでもろくに記憶がない。大学の後年くらいの頃に、それなりに胸動かされて読んだはずなのに。

美しい装丁は印象的だ。手に取った感触も覚えている。中身は全く覚えていないのに。
スンジエーネ。原題で、妖精たち、とか。妖精、白夜、空が開く。ルーマニア、きっと夏とは言えしんと冷え込んだ夜中。手の中の、本の重さ。工夫した装丁の手触り。
アフォーダンスがよみがえらせる記憶。奥付をたどる。間違いない。あの冬、出版直後に買って読んだ。煮え切らずに放浪する主人公に、迷う自分を重ねて、読み終えた深更、白み始めた空にまた、白夜を重ねたのを思い出す。

夏の夜。記憶。キャンドルに重ねるのも面白い。何かのモチーフになりそうだ。

      「妖精たちの夜」 ミルチャ・エリアーデ 住吉春也訳 作品社

作業/自省

日曜日, 6 月 21st, 2009

昨日のことを振り返る。初めて会う人とたくさん会う集まりだと分かっていたのに、なぜか名刺を忘れた。一番の手痛い失策。更に、配布資料を作成したのに、そこに連絡先も入れていない。重なる失策。

 玉ねぎをスライスする。室温になじませている、煮込み用の肉に、小麦粉をまぶすか、しばし考えて今日はやめる。
 それぞれ炒め、合わせて、赤ワインをたっぷり加えて、煮込み始める。

調理の作業は、大抵、自省と共にある。段取りを考える時間はもちろんあるが、さすがに作業に比して考える時間は余る。今日は自省が必要だから、あえて、作業時間が長いものを選ぶのだ。会場のスペースは、想定していたよりも、発散した感じだ。昔の職場の時代もそうだけれど、ふらっと歩いている人を、立ち止まらせるのは難しい。ましてや、歩く人は、違う場所に用事と目的がある人だ。その場合に、オープンスペースであることの意味はどの辺にあるだろうか。

 煮込みはとろ火で4時間見ておく。時々、水やワインを足す以外に、大した作業はない。
 中断している作業の間、自省まで中断する。そういうものだ。

発表スタイルで、惹きつける人々。5分、という時間制限で、「声」は重要だ。最初の一声で、視線をもらっている人が2人、いただろうか。制限がきつい分、工夫の仕方がとんがる。
自分はPCの操作を主催者に任せて、歩く。配布資料を配る名目だが、幾分、計算外だったのは、アプローチできない場所があったこと。会場の一番後ろでしゃべっていても、自分を振り返ってみてくれているのは、7-8人。30人は、前のスライドを見ている。大したこと、わざと書いてないのに。あと2-3割、書くことを減らさないといけない、ということなんだ。

 たまごをゆでる。トマトを湯むきする。アスパラガスをゆでる。どうせ後から冷やすものは、作業を前倒しする。
 買い物した時にはカルパッチョにしようかと思っていたホタテの貝柱を見る。刺身のままでいたい、と言っている。
 支離滅裂だが、これは刺身のままでいこう。
 ラタトゥイユでもしようか、と思った夏野菜たち。煮込みに煮込みも難だし、炒めるだけに変更する。

記憶に強い印象を残している発表は、後半の方が多い。発表そのものによるのか、それとも、自分の発表が終わっていると素直に聞けるのか。恥ずかしいことだが、どうも、後者のような気がする。詩人の方の朗読はなんだか久しぶりに聴いたこともあるけれど、印象深いし、山形の方の、具体的なユーモアのある発表も。聴くことに集中して、メモを取らなかったが、1日経つと忘れるものだ。終わった後の飲み会のせいかも知れない。

 レタス、アスパラガス、黄色のパプリカ、トマト、ゆで卵に、パルメジャーノ・レッジャーノでサラダを仕上げる。
 思い立って、マッシュルームのスライスも加える。
 ビネガーは、別に、バルサミコだったりしない。普通の醸造酢。
 バルサミコ酢の瓶が大抵、たれ易いのは文句は出ないんだろうか?と、ふと、無関係に思う。
 まあ、イタリアのやることだ。

会うのは難しくない。つながることは、やや難しい。続けることは難しく、ともにつくることはもっと難しい。
数十枚のもらった名刺から、誰が誰か、すでに特定が難しい部分があるのは、メモが不十分だからだ。仙台で、近所で、半端に、やっぱり、アウェーであることを忘れていたから、こうなる。サクランボを見て、やられた、と思った。アウェーの話をしたくせに。

 マッシュルームの根付を処理して、煮込みに加える。あと、15分。
 スープは、パック入りの出来合いのものでごまかす。乾燥パセリでもふるか。
 炒めものの準備とテーブルのセッティングに入る。
 なす、パプリカ、玉ねぎ、下ゆでしたニンジン、トマト。あー、ここに緑が足らん。ズッキーニがなかった。

反省ばかりしていても仕方がない。今日が明ければ、月曜だ。明日中に、“具体的な”次へのアクションに入れるか否かが、勝負になるのは明らかだ。鍵は二次会以降にある。大学のサイエンスカフェの場所。ワーキンググループを動かさなくちゃいけないから一仕事だし長期戦だが、一つ目のキーだ。東北方面をどうするか、乃木坂から間接的に来ていた課題を利用できるかも。これも、機構的な相手が入るから骨だが、フックになる。二つ目。そして、三つ目。11月頭、お台場。セッションを一つ、組めるかどうか。もちろん、ほかに、相手が用意してくれた、ネットワーク募集にのるのも、一つある。だけど、お土産なしに行くのは気が引ける。何があるかも考えないと。

 炒めと盛りつけに入る。料理の作業は順調だけれど、考えがまとまらずに焦る。
 ここで思いつかないと月曜に動けない。特に、お台場の件で、もう一つ何かが必要だ。

9月がある。あの会をステップに使えるかも。思いついた途端に、もう一つ。science communicationと、scientific communicationという、いつも対置する2つを利用すればいいじゃないか。他にもいろいろと思いだし、思いつかないといけないけれど、今日の成果はここまで。

 料理が終わって、3人食卓につく。自省も終わって、明日の戦略が定まる。

    2009.06.20 第4回ARGカフェ&ARGフェスト@仙台

最終世代

土曜日, 6 月 20th, 2009

最終世代だろう、と思うものはたくさんある。特にスポーツ。1981年の江川卓を後楽園球場でみたことを記憶にとどめている年下はたぶん、ほぼいないだろう。(ついでに1979年の江夏の21球を、生中継で見ていた記憶もある。)日本リーグ時代に、日産と読売の試合を見たことのある年下にあったことはない。北の湖と輪島の優勝決定戦のテレビ中継の記憶もある。蔵前で相撲も見た。外苑で、瀬古が走っているのと遭遇したこともあった。具志堅用高の試合も覚えている。無敗の皇帝の面前で、カツラギエースが逃げ切ったジャパンカップに鳥肌した。前年の、「大地が弾んだ」(杉本)シービーも生中継を覚えている。
早過ぎた暴露がワクチンになったか、同世代の感染についていけなくなる。オグリキャップ、ドーハ、辰吉。熱くなれない、何か遠くの風景に思えて。

風景。プラタナスの並木。同潤会アパート。広い通り。日が落ちると、人通りもまばらになる。ぽつぽつとともる、ネオン。薄暮。
竹の子族が出てくるよりも、もう少し前の、原宿。
自分にとっての、ほんとの東京。原風景。喪われたもの。

金曜日, 6 月 19th, 2009

傘はある。陽水の歌と違って。最近、雨ばかり。格別嫌いというわけでないけれど、格別好きでもない。「だけどいま、問題は今日の雨」というのは、共感することはある。誰かが深刻な顔をして話していることよりも、たぶん、今日の天気は大事。
座右の銘とか聞かれると困る。そんなん、ないし。タモリのを聞いた時に、やられたっ、と思った。「適当」。
流石だ。固定された言葉にこだわるよりも、常に状況に対して柔軟でいたい。研究者には向かなかった自分がよくわかる、ようやく。方法論としての科学に、こだわれない自分。パラメーターを一つずつ動かすなんて、まどろっこしすぎて。

(自然科学が対象としてきたもの、とか、それが何かを解き明かすプロセスそのもの、とかは、たぶん、別に嫌いじゃない。一応、一つ前のエントリー、書き過ぎた、あるいは、言葉が足りなかったかも、と。)

いろんな愚痴を聞く。ひとしきり聞いて、外を見る。
雨だねー。みんなに降ってる。

ライバル/カミングアウト

水曜日, 6 月 17th, 2009

ライバルはそう、15のときの自分と、20歳の頃の自分。イベントを企画しても、文章を書いていても、問いかける、そう、あの頃の自分を揺すぶれますか、あの頃の自分の財布のひもをゆるめさせられますか、あの頃の自分が彼女を誘ってきますか、と。

自分の企画、ほぼ、全滅。出来にそれなりの自信があるものに、シンポジウム、うーん、どうにか1-2つ、トークイベント、厳しいけれど、ライブトークScience Edgeの中に、1つか2つ、そして、ほかのトークイベントに1つ、企画展、なんとか、1つ。とは言え、上記基準だと、ちょっと、疑問だ。大型映像。気に入った作品だけど、上記の基準では、ダメ。どれがどれかは言えない、一緒にやった人や協力してくれた人に失礼だし。

さて、上記基準で、世のサイエンスカフェ、自分が関わったもの含めて、たぶん、すべて厳しい。イベントどうこうだけでなく、15歳の、生意気な自分には、双方向性とか、むしろ耐えられなかっただろう。むき出しの純粋さで周りに切りつけていた自分には、ディスカッションなんて呪いの対象以上にはなり得ない。
20歳のころ、サイエンス、なんて、そんなだせえところ、行ってられるわけないだろう・・・、とか、そんなもんだろうな。みんなで話しましょう、なんて言われたら、もー、たぶん、鳥肌、入口まで来ていても逃げ帰るね。ディスカッションなんざにこだわるより、かっこよさとか、ノリとかにこだわった方が、昔の自分には受けるだろうなぁ、ぜったい。

科学、とか、理系、とか、そんな別に好きじゃなかったし、たぶん、今も。って最近、ある人々に言ったら、「カミングアウト」的な反応。別に、これまでを否定的に振り返っているわけでも、仕事がきらいなわけでもなくて、むしろ反対なわけだけれど。

記憶/手繰り寄せる

火曜日, 6 月 16th, 2009

不意につながる。
音の響き、ちょっとした単語、声の感じ、温度、触感、そして匂い。視覚以外の感覚が、わすれていた過去を、突然にまざまざと呼びさます。
同級生の葬式で会った、別の同級生。風貌は激変しても、声を聞いた途端にすべてがつながる。20年前に彼と話した、細かい、他愛もない内容までもがよみがえる。授業中に、ABAの話をした。リバイバルブームが来る前、教室に自分の世代でわかる人間がほかにいると思わなかった。
記憶が、神経細胞のネットワークそのものならば、一部を共有する回路に電流が流れた瞬間、何かの拍子に他の回路に誤ってか流れが入りこみ、突然の想起が生ずる。それなりに、理論が実感に寄り添う。でも、じゃあなぜ、歳をとってからだと、新しい記憶が定着しにくくなるんだろう。結局、ただ、ネットワーク、というだけでなくって、そこに新しい細胞を生み出しているか否かがカギだったりするからなんだろうな、と、これも、曖昧にわかった気になる。

声は、識別の問題なのかも知れない。かつての自分のボスよりも、先に日本人として宇宙に飛び立った人を案内した時のこと。風貌で反応する人々はほとんどいなかったが、彼が声を出した瞬間、周囲から矢のように視線が飛んできた。変わらない個性。
匂い。香。もう何年も前に、職場で、そばを通りがかった人の、髪のにおい。それが、なぜか、さらにもう何年、いや、更に10年以上前に、苦い思いを共有し、そのまま別れた人の、その人の髪のにおいと同じ。
胸騒ぎまで蘇って、その日、一日、仕事にならない。

 五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする (詠み人知らず)

距離感

月曜日, 6 月 15th, 2009

テレビを見るよりも、映画を見たいし、映画よりも舞台を見たい。絵を見るのは好きだけれど、美術館は本質的には好きじゃない。美術展なんて、と思う、特に、何とか美術館展、なんて、もう最低。行くけど・・・。だって、作り手の思いのそばに行きたいから。できることなら、ギャラリーや、個展。古い作品で教会に飾ってあるなら、それでいいじゃないか、剥がして美術館に持ってこないでくれよ。暗くて見えなかったりするけど。巡回美術展が、キュレーターの明確な意思のもとに集められた作品群ならば、いい。何とか美術館展って、要は、引っ越しの合間の出稼ぎだったりするわけで。ただ、美術館の建物は、大抵、いい。科学館と違って。アートフェアは、・・・、まあ、売り買いという別の論理にひきずりだされている現場を眺める別のおもしろさはあるけれど、絵を見ることの楽しさとは、また違うかな。ただ、ちゃんと経済的な活動として、在野の個人が参加できる場として、生きてるものがあるっていうのが大事。ど素人と、ちゃんとつながりを保つばとして、公的にはTokyo Wondersiteがあったり、そう、あとは、Art Interactive Tokyoがあったり。後者はひそかに(って、自分が何してもひそかだと思うが)応援していたのに、実質的に活動休止になっているのは本当に残念。

反論可能性

月曜日, 6 月 15th, 2009

ある面接の時だ。「君は協調性がなさそうだ。」と言われたことがある。実際どうか、ということはこの際措くとして、これが反論が難しい。協調性、あるんですけど、と自分で言ったところであまり信用性がないし。如何に自分が協調性があったかを力説する事例を並べるのも、何だか嘘くさい。対抗する大した方法論がない。もちろん、反応を見ているのだろう、と思いながら、ロジカルに組み立てて言い返すのは難しかった。

多くのことを実践している、ということがマイナスに働く場合はどうだろう。わかりやすい行動をとったことがマイナスに働く事態はどうだろう。

そんな馬鹿な、と思われるかも知れないが、研究機関や研究者の評価で、いまだにまかり通る実情。

日曜日には花を買って

日曜日, 6 月 14th, 2009

科学の、はじまりとして、好奇心はよく挙げられる。朝永博士あたりにもあったような。科学の芽。
何だろう、と、どうしてだろう、は違う。ことわりを説明しようとすることが科学なのかというと、どうもそれも違うように思う。科学的な言説の多くは、説明に堕ちる。ことわり、理由、理屈付け。どうなっているのか、を知ろうとする好奇心が、対象を愛でる気持よりも一段、落ちる、と言いきっていたのは、たしか、生命誌の「愛でる」の号で、館長対談していた哲学者だったか。あー、と言いあてられてしまった感もある反面、納得しきれない思いも抱えた反面、読んでからもう、たぶん、4年くらいになるけれど、重たい宿題は続く。

花を買う。年に、2-30回くらいだろうか。
ただ、多くに、理由がある。理由がないと受け取ってもらう側に、素直に受け取ってもらえない、というか。

商品として売買されるすべての生鮮品の中で、たぶん、切り花が一番、役に立たない。だって、食べられないし。飼えないし。よって、何か、ちょっと、高尚な気がする、ということもないけれど、花を買う人間でいたいと思う。花を贈る人間でいたいと思う。理由が必要なのは、むしろ鬱陶しい。送別でなくても、誕生日でなくてもいいじゃないか、と。

花束にして、人に贈る場合には、余計な要素を排除したいから、とくに初めての花屋では、よほど時間がある時以外は、単種にする。あるいは、出来上がっているアレンジ。単種、バラだけ、単色、20本、とか。多くの花屋が怪訝に聞き返す。「かすみ草とか要らないんですか?」「要らない。」つっけんどんに答えて、微妙な沈黙。「わかりました。ほかの花は?」「要らない。バラだけ。」沈黙。「はい。」 だって、合わせた時のあなたのセンスを僕は知らない訳だし、いきなり任せられるわけないだろ、と思うのだけれど、大抵の人はそうはしないから、不満なのか。色に集中して選び、それが、贈った相手が送別会の日のために選んだ服の色とあっていたりするとうれしい。
とは言え、そういうことを、そういうシチュエーションなく、なんとなく寄った花屋で、何となくこれから会う人のイメージに合うのがあったから買ってみた、とか、そんなことができた方がいいなと思うけれど、たぶん、それは、どうも社会的に許容されてない。

理由を解き明かす、という形でなしに、科学をもうちょっと、何とかできないものか。美しいものとして、なにか。

鮮やかだったのは、デルフィニウムの青。夏の始まりに、涼気を感じさせる。
せめて、自宅には、理由なしに、花を買って帰る人間でいたい。

ギャップ/ブリッジ

日曜日, 6 月 14th, 2009

異なるテーマを複数取り上げて、その間を共通の感情やキーワードなどでつないでみる。異なるものの距離だったり、意外な近さだったりを浮き彫りにできるかも知れない、と。嘘つきの正直ものが書くブログの基本モチーフなのだけれど、まあ、それほどこだわってないので、結構やぶる。座右の銘などない、適当、を旨とする。こだわることからも自由でいたい。

三沢光晴が死んだ。ファンではないし、プロレスになにがしかの思いがあったのは、幼稚園のころまでなので、相当のことというわけではないけれど、彼は、きちんと、まじめにふざけていたと思うのだ。虚構の中で、どれだけ真剣にできるか、プロレスを八百長とか、ショーだとか批判するのは簡単だけれど、そこにいる人間の存在は真実で、そこにたとえ筋書きはあっても真剣味が十分以上にあったからこそ、見世物として成立する。二代目タイガーマスクは、昭和のプロレスの最後の花だったかも知れない。
見世物として成立しているかいないかは極めて重要なんだ。
普通を超絶したものを人は金を払って見に行く。プロレスは、リングの上だけではない。ストーリーを作り上げていた。

夏がすぐそこまで来ている。アイロンがけの時間がつらくなってくる。あまり自分でやるイメージがないようだけれど、9割方やっている、と思う。ただ、そう家人に言うと、1割減額される。自己イメージは、常に甘くなるのか。


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