日本茶の歴史
お茶はいつごろ日本に伝わったのか、それとも、もともと日本にも自生の
お茶の樹があったのかは、まだ確かなことはわかっていません。
奈良時代に大陸文化吸収の中の一つにお茶があり、たまたま日本の気候や
土質がお茶づくりに適した環境であったのだろうと思います。
しかし当時はまだお茶がどのように生活の中で用いられてきたのかは、
わかっていません。
唐の時代に、陸羽という人が茶の科学書「茶経」を記していますが、
お茶は最初薬として飲まれていたことがわかります。
日本にお茶を広めたのは鎌倉時代の臨済宗の開祖、栄西禅師です。
「喫茶 養生記」の中で『茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり』と書き、
また中国宋の抹茶を紹介しています。
栄西が茶栽培を推進した理由は、中国の4年間の滞在でお茶が体によいことを
認めたからということと、その不眠覚醒作用が禅の修行に必要であることが、
お茶を奨励した大きな理由だったのでしょう。
そして栄西は京都栂尾(とがのお)に高山寺を中興した明恵上人に、
茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を栂尾に贈りました。
それにより京都の栂尾における茶栽培はその後2世紀にわたり盛んで、
栂尾の茶を本茶、それ以外のものを非茶と称したほどだといいます。
宇治以前の茶の産地が栂尾であったことがわかります。
余談ですが、茶道の世界では栄西禅師がお茶の開祖とされ、栄西禅師の
徳を称えたお茶会が開かれます。
室町時代になるとようやくお茶が公家や武士のあいだで広まり、
社交の手段として愉しまれるようになってきました。
そして足利幕府の奨励を受けた宇治茶のブランドが広まります。
将軍足利義満は、宇治七茗園と呼ばれる優れた茶園を宇治の里に作りました。
これにより宇治は天下一の茶産地となり、栂尾に代わり本茶の地位を固め、
当時の宇治茶は、贈答品としてもてはやされました。
織田信長や豊臣秀吉も戦乱の間にもお茶を好み、豊臣秀吉は北野の大茶会を
催し、これによってお茶というものの大衆への認知はすすみましたが、
まだまだ庶民が簡単に味わえるまでにはなりませんでした。
江戸時代中期(1738年)にお茶の大革命が起きます。
宇治田原の永谷宋円が、蒸して揉み、乾かすという製法を発明します。
これが現在の煎茶の製法の始まりで「手もみ製法」と呼ばれる宇治製法です。
現在各地で伝承されている手もみ技術はすべてこの宇治製法の流れを
くむものとされています。
それまではお茶といえば栄西禅師が持ち帰ったとされる、碾茶(てんちゃ)のことでした。
庶民は、抹茶にしたあとに残った茶葉や、茶葉をそのまま干したような番茶などを飲んでいたようです。
幕府が使用する宇治茶は、毎年幕臣が使者となって、宇治から江戸城へ運んでいました。
現在の宇治市街の大半は幕府が直接管理しており、幕府が直轄した背景に、宇治のみ許された覆い下手法
による、全国に比類のない碾茶の産地という特殊性にあったのです。
新製法のいわゆる煎茶は色や香り、味が良く江戸や各地で非常に評判が高く、普及が一気にすすみました。
一般庶民がお茶を楽しめるようになったのはこれ以降です。普及が進むことと表裏一体となって、
この時代はお茶の生産が飛躍的に増大しました。
そして幕末近くに宇治で玉露も考案されました。
こうして歴史を見ますと、これだけ日本人の生活になくてはならないお茶ですが、
庶民生活に浸透してから300年経過していないようですね。