第5回 差別の現実を知り、書くこと(後編)

角岡伸彦さん(フリーライター)インタビュー

(聞き手 寺園敦史)



事業をめぐる犯罪・不祥事の意味

寺園 この10年間で、同和事業や運動めぐっていろんな問題が公になってきています。角岡さんもこれについての取材をされていますが、そこで明らかとなった事実はいったい何を意味しているのか。この間報道されてきた犯罪・不祥事の問題の本質はなんだと考えていますか。

角岡 差別はなくなってきているわけです。したがってそれに応じて運動のあり方を変えなければならなかったし、同様に同和行政も変わらなければならなかった。しかし結果的にはあまり変わっていなかったのではないか。そこが問題ではないでしょうか。

 ぼくが今取材しているある部落についてですが、かつてどんな実態があってどのような取り組みが行われてきたか、戦後の流れをずっと見ていくと、1990年以降、もはややることは何もなくなっていたんですね。ところが、2002年3月末で特別法が失効した直後に、その地域が行政に対して出した要望というのは、30項目もあるわけです。こんな問題がある、あんな問題があると。ぼくから見ると、そんなものは自分たちで解決する問題ではないか、いつまで行政に言うねん、と思えるものでした。


かどおかのぶひこ:1963年生まれ。フリーライター。著書に『被差別部落の青春』(講談社文庫)、『ホルモン奉行』(新潮文庫)、『はじめての部落問題』(文春新書)、『とことん!部落問題』(講談社)、『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』(講談社)
寺園 部落の実態、あるいは差別の実態の変化に応じて変わるべき運動と行政が変わらなかったのはなぜでしょうか。どこに分岐点があったと考えますか。

角岡 分岐点はあってないようなものではないですか。何かきっかけがあってこうなってしまったというのではなく、じわじわと甘えの体質、差別があったほうが得だという体質ができ上がってしまったのだと思います。運動の側には「既得権」がなくなることへの恐怖感もあったと思います。

寺園 多くの自治体では、運動団体に屈服したといいますか、運動団体の意向に反することができなくなっていったという状況が生まれていたと思います。強力な運動が存在する自治体ほどそういう上下関係ができ上がってしまった。そういった関係は、たしかにじわじわと時間をかけてでき上がっていったとは思いますが、しかし、運動と行政に大きなインパクトを与えたのが1969年の矢田事件だったとわたしは考えています。

 この事件以降、部落問題においては異論が許されなくなった。少なくとも行政は、運動団体に対して異論を出せなくなってしまった。そう考えています。運動団体が、ここでは部落解放同盟のことですが、ひとたび差別だと認定してしまえば、従わざるを得なくなり、また、団体がこいつは差別者だといえば、たとえ授業中であろうと身柄を拘束して追及しても許されるという状況が生まれたわけです。事件のきっかけとなった教諭の「あいさつ状」が差別かどうかは別として、解放同盟の主張に疑問があってもそれを表明できなくなってしまった。この事件はそういったマイナス効果を生んでしまったのではないでしょうか。

角岡 矢田事件の影響が特に大きかったとは思わないですね。八鹿高校事件もありますし、その他いろんな事件が起こっていますから。どの事件に関しても、見る立場、所属する団体によって見解が変わってきますから。もちろん、何が事実なのか、が一番重要なのですが。

寺園 角岡さんははじめに、部落問題は部落に対する差別の問題であるといわれました。しかし、わたしは、長年の同和事業と運動のからまりによって生み出されてきた様々な不合理な実態、同和行政問題と呼ぶべきかもしれませんが、これも部落問題の解決ということを考えれば大きな問題だと痛感しています。不合理な事業を続けてきた行政、それを要求してきた運動の問題のほうが、差別の問題より、はるかに深刻で、悪影響を及ぼしてきたのではないかと思うのです。そして、その悪影響を運動団体は今日に至ってもさほど自覚していないように感じます。

角岡 それは表現の問題ですね。差別より、行政や運動団体の問題の方が大きいなんて言わなくてもいいのではないですか。両方問題なわけですよね。しかし、どっちがより大きな問題かということではないと思います。

 たしかに行政と運動が抱える問題は、まったくその通りだと思います。おべんちゃらではなく、寺園さんがされてきた取材は、ぼくが避けてきた問題で、異論もありますが意味のある仕事をやってこられたと思います。しかし、差別の問題なんかよりこっちの方が重大だというのなら、それなら実際に差別の問題を取材して欲しいと思いますね。

 あっちよりこっちの問題のほうが重大だというのは、両方取材していないと言えないわけです。あっちを取材していないのに、こっちの方が重大だというのは不釣り合いな印象があるのです。

寺園 おっしゃる通りです。実はわたしの取材を応援してくれる友人からも同じ趣旨のことを言われたことがあります。

角岡 言わなくてもいいことを言ってしまうので、反発が起こるわけです。あっちよりこっちが大事だなんて言わなくてもいいじゃないですか。これは大事な問題ですと、それだけでいいのではないですか。差別の問題なんだから、泣いている人間もおるわけですよ。

寺園 言っている人に限って泣いてないですよ。むしろ泣かしているやつの方が多い。痛くもないくせに「お前ら、おれたちの痛みがわかるか」と言われると、そんなんわかるかいと言いたくなるなるわけです。

角岡 そんなやつに対しては、「お前、どこに差別があるねん」と、どんどん言ったり書いたりしたらいいわけです。しかし、一般論として、こっちのほうがより重要だといったことを書くと、どうしても反発は出てきますね。それを言うからぼくみたいに突っ込む人間が出てくる。差別の実態を取材したことがないからそう言えるのではないか。知ってから言えよと。

寺園 よくわかりました。まったくその通りでした。

〈同和利権の真相〉のメンタリティ

寺園 さて、2002年3月に宝島社から〈同和利権の真相〉シリーズが刊行され、わたしも執筆に参加しました。これについて、角岡さんからは当時厳しい批判を受けることになりました。ところが、実はその当時、この人はいったい何を問題にしているのだろうと、理解できないでいました。〈同和利権の真相〉シリーズ、もしくはわたしの書く記事の何を批判していたのでしょう。

角岡 今の話とつながるんですが、この人、差別を取材しているのかな、というのがまずはじめにありました。取材していないからこそ、こういったことが書けるのではないかと思いました。

 次にぼくが問題としていたのは、解放同盟と共産党との対立の構図というか、党派性を前面に出したところです。

 ぼくは解放同盟員ではありませんが、解放同盟に近い立場と思っています。どういうことかといいますと、部落民として解放されるのか、部落民からの解放なのか、というふたつの考え方があります。共産党は国民融合路線を1970年代に入ると主張し始め、部落民からの解放を標榜するようになります。ぼくの考えはそうではなく、部落民としての解放なんです。そこにおいてのみ解放同盟に近いと考えています。

寺園 『「同和利権の真相」の深層』(解放出版社)の角岡さんの原稿を読んで感じたのは、角岡さんはわたしを批判しているのではなく、共産党を批判しているのではないか、ということでした。わたしの書いたものではなく、そこから読み取れる共産党的考え方を批判している。

角岡 両方批判したつもりです。

寺園 わたしの文章ってそんなに共産党的文章ですかね。

角岡 自分では違うと思ってはるでしょ。しかし実際は共産党的ですよ。

 その党派性というか、「共産党史観」で部落問題を見ていることを批判したのです。先ほど矢田事件についていわれましたが、この事件も立場が違うとまったく別の見方ができると思うのです。さっきも言いましたが、ぼくは解放同盟員ではないですが、事実関係を資料を読んだり、当事者から取材する限り、共産党の主張は言っていることはどうかなと思います。

 また、ぼくが〈同和利権の真相〉を読んで持った違和感というのは、たとえば、シリーズ1巻目の最後に、寺園さんと一ノ宮美成さんの共同執筆で、大阪市浪速区の部落のことが書かれてありますね。その中で、長年にわたる同和行政の結果「このまちはゴーストタウンになってしまった」というくだりがあります。

 その書き方というのが、ほれ見たことか、という調子なんですね。解放同盟が主導となってまちづくりをした結果、こういうまちになってしまったんだと。しかしこれは手をたたいて喜ぶようなことなんですか。どの団体が主導したとしても、これは悲しむべきことであって、喜ぶようなことではないはずです。こういうメンタリティーが受け入れられないのです。いやあな感じがしますね。

事業の結果残った部落の今後

寺園 最後になりますが、戦後のあるいはオールロマンス事件以後の部落解放運動、同和行政を振り返ると、今再検証すべきテーマはなんだと思いますか。

角岡 いっぱいあり過ぎてどこから話していいのか…。アトランダムに言うと、まちづくりの問題です。同和対策事業特別措置法は10年の期限立法でした。しかし10年では足りなかったので、そのつぎ足しつぎ足しで結局33年間事業を続けていくことになりました。

 これがもしはじめから30年でまちづくりをするということでやっていたとしたら、今とはずいぶん違う結果になっていたのではないかと思うのです。事業を場当たり的にやって来たのは、先を見通して考えることできなかったことが要因だと思います。法律的な限界があったのではないかと考えています。

 もう一つ考えていることは、同対事業が30年あまり続いたわけです。事業は部落差別をなくすためにやってきたはずです。ところが実は事業継続によって、部落と部落民を残すことになったわけです。結果的にそうなってしまった。これはいい悪いの問題ではありません。事実として残ってしまったということです。

 このことについては、運動側は、そう深く考えてこなかったと思います。先ほど、ぼく自身は、部落民としての解放を考えるという点で解放同盟に近い立場だといいましたが、実際そう考える同盟員は少ないと思います。「部落とか部落民とか、そんなんいちいち言わなくてもええやないか」。そう考えている人が、実は多い。ぼくのなかにもそういう気持ちがありますから、よくわかります。

 この矛盾、つまり、差別をなくすための事業だったけど、部落、部落民を残すことになった。運動はこのことに関する議論をあまりやってこなかったと思います。解放同盟あるいは水平社は、部落民としての解放を言っているけれども、本当にそうだったのかというと、説明がつかない運動の実態がいっぱいあるんです。

 たとえば、東近江市の事件もその一つですが、誰かが役所などに「どこに部落はあるか」と問い合わせたということで、解放同盟は問題にすることがあります。それを何のために問い合わせたのかは問題ですが、これまで事業を要求してきた結果、部落と部落民を残してきたのに、部落の所在地を問い合わせると差別だというのは、なんだかしっくりこない。

 今さら部落と部落民をないものにしていこうというのは、当分は不可能なことです。事業によって生まれたこの結果をどう整理するか、これまでこのことをあいまいにしてきたのではないでしょうか。今後の大きな課題だと思います。

 関連して言いますと、今日においても、ぼくのように、自分が部落民であることを明らかにして発言したり、ものを書いたりする人ってきわめて少ないのです。もちろんこれがいいことだと言うつもりはありません。部落民を明らかにしても排除されない、同性愛者や障害者であることを公言しても差別されない、そんな社会になればいいと考えています。だからこそ自分の立場を言う意味があるのではないかと思うのです。

寺園 本日はありがとうございました。

(2011年6月29日・大阪市北区の新阪急ホテルにて)


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