第5回 差別の現実を知り、書くこと(前編)
角岡伸彦さん(フリーライター)インタビュー
(聞き手 寺園敦史)
インタビュー依頼の動機
寺園 わたし自身部落問題について、けっこうな期間取材してきました。しかし、その対象としてきたのは、もっぱら同和行政と解放運動に関することでした。行政や運動が抱える問題が部落問題の解決を考える上で深刻な影響を及ぼしている状況にあると痛感したからです。
幸いなことに、行政が抱えてきた問題に関しては(少なくともおもな取材のフィールドとしている京都市においては)ずいぶん整理されてきたこともあり、これを機に改めて、部落差別の現実、今日何を問題とすべきなのかという点について、自分なりに考え直してみたいと思うようになっています。今日はこのテーマで長年取材をしておられる角岡さんのご意見をうかがいます。
角岡さんにインタビューをお願いしたのは、今言ったようにずっと取材をしてこられているということ以外にも理由があります。
2006年に、同和事業をめぐる問題点が関西のいくつかの自治体で連続して明るみになり、部落解放同盟に対して、市民から強い批判の声が噴出した時期がありました。このとき、解放同盟と一緒に活動してきた研究者、評論家、ジャーナリストの大半は沈黙しました。わたしとは関係ありませんという態度です。なかには、さんざん運動と一体となってやってきたくせに、急によそよそしく「解放同盟も反省すべきだ」などと他人事のようなコメントをメディアに寄せる研究者もおり、驚かされました。
しかし、角岡さんはこのとき、飛鳥会事件などの取材を行い、同和事業や解放運動を批判しました。同和行政と解放運動がため込んでしまった問題について、自らの問題として取材に当たっておられたことに、注目していました。そういった意味でも、角岡さんが今の部落問題について、どう考えているのか、お聞きしてみたいと思った次第です。
もう一つの理由は、実はわたしは角岡さんとは、ライターとして活動する中で過去3度、出会ったといいますか、接点を持つ機会がありました。1度目は、1997年にわたしがはじめて本を出したとき、この本の中で角岡さんがある雑誌に発表されたルポを批判しました。2度目は、2002年から03年にかけて〈同和利権の真相〉シリーズが刊行された時期。最後は、2006年のいわゆる飛鳥会事件をはじめとして、同和事業が長年抱えてきた矛盾が一挙に噴出した頃、NHKが企画した特集番組「かんさい特集『岐路に立つ同和行政──部落差別にどう向き合うか』」(2007年5月放送)で議論したときです。
とくに、1度目2度目のときはかなり厳しい批判を角岡さんから受けましたが、いずれも十分議論を深めることができなかったという思いがあります。角岡さんの批判に向き合わなければならないなと思うことはありましたが、わたしの立場から言わせてもらうと、当時角岡さんの姿勢は、この人とはとうてい意味のある議論などできそうにないなと感じさせるものでした。しかし、あれからだいぶ時間が経ち、わたしとしても当時とは違って少し冷静に受け止めることができるのではないかと思い、インタビューをお願いしたというわけです。
差別とは何か
寺園 一口に部落問題といいますが、今日、それは具体的に何を問題としているのでしょう。
角岡 一般的には部落に対する差別の問題です。前提として差別があるということです。障害者問題が、障害者に対する差別があり、それをどう解決するのかというのと同じです。
かどおかのぶひこ:1963年生まれ。フリーライター。著書に『被差別部落の青春』(講談社文庫)、『ホルモン奉行』(新潮文庫)、『はじめての部落問題』(文春新書)、『とことん!部落問題』(講談社)、『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』(講談社)
角岡 これまでの〈オールロマンスから考える〉のインタビューを読んだのですが、差別とは何か、そこの定義をはっきりしないまま、だれが差別と認めるのか、何が差別事件なのかという議論をしても上滑りになると思います。
では差別とは何か。『はじめての部落問題』(文春新書)で引用した通り、チュニジア出身の作家アルベール・メンミによる、差別とは「現実上の、あるいは架空の差異に、普遍的、決定的な価値づけすること」という定義が、ぼくは一番わかりやすいと思います。
つまり、部落という《差異》を劣ったものとしてみて、言葉や暴力あるいは態度でさげすんだり、機会の均等をそこなうような行為を部落差別と考えています。ここで《差異》とカッコつきでいうのは、性差などの現実上の差異によるものではないという意味からです。
部落差別はかなり改善されたと見ることができます。部落に対する見方もかつてと比べて大きく変わったところもあります。しかし、変わっていない面もあります。たとえば、結婚差別という形で現れます。また心理的差別といいますか、「こいつ、なんやかんや言うても部落民やないか」といったような心理は、まだ残っていると思うのです。
寺園 わたし自身、部落問題は基本的には解決したといったことをこれまで言ってきました。しかし、そう言うと、「いやそうは言っても現実に差別はまだあるではないか」という反論が出てくるんですね。しかし、わたしは差別はなくなったといっているわけではなくて、差別はまだあるけれども、部落問題としては基本的には解決していると主張しているわけです。
制度的、社会的に差別する実態、あるいはそれを容認する実態が残されているわけではないし、人間関係においても心の中ではどう思っているかはべつとして、公然と部落民を排除したり、おとしめたりする実態、あるいはそれを容認する実態はすでになくなっているのではないかと考えているからです。
解放運動をやっている人の中には、差別はまだ残っている。それは行政の責任だ。行政は差別が残っている限り同和行政を続ける責務がある、と考える人が多いかもしれませんが、今日ある差別は行政の責任かどうか、行政が何か事業をすることによって解決するのかどうか疑問なんです。むしろ、運動自身が負うべき課題がほとんどではないのかという意見です。
「解決した」と言わない理由
角岡 今、ふたつのことを言われました。前半は、部落差別は今どうなっているのかということ。後半はいまだ残る差別をだれがどう対処すべきないのかということ。
まず前半部分について言いますと、ぼく自身、問題はかなり解決したという実感を持っています。しかし、この問題だけにかかわることではないのでしょうが、「基本的には部落差別は解決した」と言い切ることは、ナーバスな問題です。どういう言い方をするか、またそれをだれが言うか(どれだけその問題を理解しているか、という意味です)。当事者にとっては大きな問題だからです。
ここ10年以内の話ですが、ぼくの身内にも結婚差別を受けた人はいますし、取材の中でもそういう体験をした人にも出会っています。差別に苦しんでいる人は現実にいるわけです。そういう中、「部落問題は解決した」とは簡単には言えないし、言い方も考える必要があると思います。
寺園 たしかに、現実に差別に直面して悩んでいる人に対して、部落問題は解決したといっても意味のないことだと思います。当人にすれば解決したどころかいまだ深刻な問題でありつ続けているし、生きるか死ぬかという問題であるかもしれません。しかし、周囲あるいは行政も同じように、いまだ差別は深刻だというべきなのでしょうか。
角岡 そういう問題ではないと思います。かりに寺園さんが何かの問題を抱え悩んでいたとします。そのとき「そんな小さな問題で悩まなくてもいいやないか」といったことをぼくなら絶対言わないですね。
ぼくが在日コリアンの問題を書いたとしましょう。在日に対する差別もかつてと比べれば減っていると思います。社会も変わったし、なくす運動をやってきましたから。しかし、だからといって、ぼくは問題は解決した、と容易に書くのにはためらいがあります。減ってきているとは言ってもいろんな状況におかれている当事者がいるわけですから。
差別、いじめの問題も同じだと思いますが、本人が悩んでいるときに、客観的な状況がどうなっているのかということは別問題なんです。客観的な情勢はこうだから気にするなとか、差別なんてなくなってきているよなんて言うのは、意味のないことです。
簡単に「部落問題は解決した」と言ってしまうことで、そこから漏れる人や事例があることを頭に入れなければならない。ぼくは部落問題の当事者ですので、ちょっと待てよと言わなければならない。
寺園 どういう状況になれば「解決した」と言うことができるのでしょう。
角岡 ぼくと寺園さんとの間でこういう意見の違いが生じているのは、さきほど言った後半の話がからんでいるからです。部落問題の歴史には、1960年代以降の同対事業と解放運動の歴史がひっついてきますよね。差別があるということで運動をやり、行政を突っついてきた。その結果いろんなものを手に入れてきたわけです。
どういう状況になれば「解決した」と言うのか、という質問は、部落問題が同対事業と密接なかかわりがあるからこそ出てきたものだと思うのです。
寺園 そうですね。別の言い方で質問すると、いつまで同和行政を続けろというのかとお聞きしたかったわけです。
角岡 いやそういう意味ではなく、部落差別はどうなっているのかという前半部分と、行政や運動の問題という後半部分とは切り離して考えるべきだと言いたいのです。
はじめは差別の問題だけだったのが、それに事業がからんできた。差別があるから事業をしなければならないという話になり、極端にいえば、差別はなくても事業はしろと言ってきた面もあったと思うのです。事業の正当性・妥当性という側から見ると、今の部落差別は小さく見えるのだと思います。また実際に小さくなっていると思います。寺園さんはおもに事業や運動の問題点から部落問題を見てこられたので、現実の差別が小さく見えるのではないでしょうか。前々から感じていたことですが、これはぼくと寺園さんとの違いでもあると思います。
簡単にまとめると、前半部分は、差別の量と質が変わってきているのは確かだけど、いろんな人、事例があるわけですから、その言い方は注意する必要があるということです。寺園さんの場合、その言い方が大ざっぱ過ぎるのではないかと感じるわけです。後半部分の話は、いつまでやるねんという話は、ぼくも同意見なんです。だからこそ、前半部分、つまり部落差別の実態を言及するときは、もう少し気をつけるべきではないかというのがぼくの言いたいことなんです。
行政の役割はまだあるか
寺園 結婚問題の他に、現在どのようなことを問題だと考えていますか。解放同盟などがよく問題とする公共施設などでの落書き、インターネット上での書き込みなどは、今日における部落差別の事例とみておられますか。
角岡 ものによりますね。ぼくが今重視しているのが、たとえば自治会を再編成するときに、部落と同じ自治会に編入されることに反対するケースです。こういったケースは昔からありました。町名や番地が部落と同じものになるのはいやだというケースです。そこまでして、なぜ部落を忌避するのか。これは大きな問題ですね。
それに比べれば、落書きなんて大した問題だとは思えない。少なくともぼくはなんとも思いません。落書きの事例を強調することしかできない運動団体は情けないと思います。
寺園 結婚差別、それに今指摘された自治会再編成時の問題、こういったことはいったいだれがどう解決すべき、もしくはかかわるべきことなんでしょう。
角岡 寺園さんは、行政がそういった問題に取り組むべき必要性はないのではないかと言いたいわけなんですね。
寺園 そうですね。行政の責務としてやるべきこととは思えません。たしかに、一般的な人権啓発とか、学校での人権教育は必要でしょう。しかし、行政が怠慢だからこういった問題が起こるのか、行政がしっかりしていればこういった問題は防げるのかという疑問を持っているわけです。
角岡 行政の怠慢、差別行政の結果、こういった問題が起こるとは、ぼくは考えていません。ですが、差別があったときに行政が何らかの解決を図る、援助をするのはありがたい話だし、そうあるべきだと思います。
寺園 角岡さんがそういう意見だとは少し意外です。個々の事件によってそれは違ってくるのではないですか。自治会再編成の問題なら役所が何らかの形で介入する場面があるかもしれませんが、逆に行政がかむとよけいややこしくなるというか、行政の手ではどうしようもない問題だってあると思うのです。
角岡 そうでしょうか。各自治体とも、刑事であれ民事であれ行政相談、法律相談という窓口を設けていますよね。たとえ悩みがごく個人的なものだからといって、そういった窓口を行政が持つ必要はないとは言えない。それと同じことではないですか。
しかし、こんなことまで行政を追及するのかという事例はたしかにあります。たとえば落書きなんかで行政の責任が追及されるのは気の毒です。落書きした人間って面白がってやった場合がほとんどでしょうから。(後編へ続く)
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