第2回 差別小説でなければならなかった「特殊部落」(後編)

秦重雄さんインタビュー

(聞き手 寺園敦史)



なぜだれも検証しようとないのか

寺園 今お話になった秦さんの主張あるいは論文に対する反響はどのようなものでしたか。

 文芸部会の仲間内からは妥当な見解であるという受け止めでした。しかしそれ以外では反響はとくにありませんでした。さきほども少し触れましたが、文芸部会の外に一歩出ると、「杉山が書いたあんな作品なんか…」といった感じで、まともに論じるに値しないと口にする人もいました。それは今も続いています。

 その一方、京都市職員によって執筆された「小説特殊部落」という差別小説が『オール・ロマンス』という雑誌に掲載されてどうのこうのということは、いまだにいろんなところでいろんな人の手によって書かれ続けています。この人たちは、作品を精読もせずに、ようそんなことを言い張るなあと思いますね。また、インターネットで杉山さんの本名を書き続けている人もいます。こういう人の人権感覚を私は疑います。

 仮に「差別小説」を発表しても社会的責任は問われますが、刑法上の犯罪とは言えないでしょう。杉山さんは責任を取って公務の職場から去られました。立派な方ではないでしょうか。それにもかかわらず、60年近くもさらし者にされている事態を深刻に受け止めて、必要な反省をしなければならないと思います。

 解放同盟の「糾弾闘争」で裁判所から刑法上の有罪措置を言い渡された者が多数います。その人達は公職や運動体の役職を退いたのでしょうか。杉山さんの責任の取り方に照らして恥ずかしいと思っていただきたいと思います。私が杉山さんの「名誉回復」をことあるごとに叫んでいるのは、この義憤があるからです。それはまた、運動の前進に貢献すると自負しています。


秦 重雄(はた しげお) 大阪府立大手前高校定時制教員。1953年生まれ。1978年立命館大学文学部卒。専門研究は「日本近代文学研究」で、「部落問題文芸」「ハンセン病と文学」「プロレタリア作家中西伊之助」の三分野を特に追究している。
寺園 事件当時も、実際に読んで批判していた人はほとんどいなかったのでしょうね。

 そうだと思います。解放委員会京都府連の委員長で糾弾闘争の先頭に立った朝田善之助さん自身もたぶん精読していなかったのじゃないでしょうか。

 水平社が設立された当初から、糾弾闘争は行われ、様々な文学作品が「差別」だとしてやり玉に上げられました。そのほとんどが牽強付会(けんきょうふかい)といいますか、文学作品として読んだ上でなされたものではありません。自らに都合のいいようにねじ曲げられて糾弾しているのです。今も文芸部会で検討を続けていますが、水平社の文学作品に対する糾弾は、いちゃもんつけが多いですね。

 ただ、そういった中でも、今日においてもこの闘争が高く評価されているのは、文芸作品に対する糾弾闘争が行政の同和事業と結びついた最初の事例だったからですね。

寺園 ただ、乱暴な理屈ではあったにしろ、当時の部落の実態を前にして、運動側はこの現実を何とかしろといい、行政が何とかしなければならないと考えたこと自体は、もっともな面もあったと思います。

 しかし、事件から60年にわたって、この小説が差別小説であるとほとんどだれも疑わずに今日に至っています。せいぜい、あれは在日朝鮮人の生活を描いたものなのに、部落問題にすり替えられてしまっているという指摘がなされたくらいでした。

 問題になっているもともとの小説を読んで議論する、研究をするといった、ごく初歩的なことが半世紀以上にわたってまともになされなかったという事実、あるいは「小説特殊部落」は差別小説ではないという研究が、関係者の関心をほとんどひかないでいる事実は、「糾弾要項」の乱暴な理屈と同じくらい、深刻な問題をはらんでいると感じます。

 運動はもちろん、研究者の中でも、同和行政の永続化という課題が第一義的にあったからでしょう。そこでみんな思考停止してしまったのだと思います。そういう人たちにとっては「小説特殊部落」は差別小説でないと困るわけです。島崎藤村の「破戒」もそうなんですね。

寺園 たとえば1970年代、80年代、同和事業の継続の必要性があると考えられていた時期においても、同和事業の正当性、必要性とは切り離して、その全国的先駆けとなったオール・ロマンス事件そのものは再検証すべきではないかという議論が、運動なり研究の中から起こってもよかったように思います。研究者の中には部落解放同盟と一体化したことを主張している人だけでなかったはずです。なぜ声にならなかったのでしょう。

 もっともな指摘だと思います。ただ、かつての状況、たとえば、学校内での生徒の不十分な発言を理由に、解放同盟などから「差別」だと糾弾され、その対応に苦慮した校長が自殺するという事件が、1970年代から90年代にかけてたびたび起こっていました。オール・ロマンス事件に疑問を持った人がいたとしても、当時においては自殺に追い込まれることに比べれば、杉山さんの犠牲なんて大したことではない、と無意識の内に考えたのかもしれませんね。

 もはや、生け贄を供することで運動を前進させるとか生活を改善するなんてことはいっさいやめなければなりません。

 私は文学の研究者ですから、「小説特殊部落」は差別でも何でもなく、当時の部落の実態をある程度正確に反映した作品であることを指摘し、杉山さんの名誉回復を声を大にして叫んでいます。

事件を生み出した戦後史の流れ

寺園 さきほど出された、島崎藤村の「破戒」ですが、あれを部落差別小説だなどといっている人の感性も、わたしは疑わざるを得ません。文学ですから、感動する人もいればいない人もいるのは当然で、「破戒」に感動しなかった、評価しないという声があってもいいと思います。

 しかし、よく「丑松根性」などと口にする人がいますよね。つまり、「破戒」の主人公瀬川丑松が、自らの出自を恥じ、それを隠してびくびくした生活を送り、いったんそれがあばかれると周囲に対して伏して詫びるという、部落民として誇りも何もない、情けない人間といった意味で使われているのだと思います。

 しかし、「破戒」を読んでどうしてそんな丑松を揶揄する表現が生み出されてしまったのか、理解できない。逆に、紆余曲折を経て、丑松のような生き方ができるなんて、これほどすばらしいことがあるかと、わたしには思えます。

 青年教師瀬川丑松は、校長やその取り巻き、地域の有力者に謝罪したのではありません。自分が責任を持って教えている学級の児童達に頭を下げたのです。現在でも教師が自分の内発動機によって教え子に頭を下げるのは並大抵のことではありません。こういう青年熱血教師だからこそ、教え子達は校長の制止を振り切って丑松の再出発を見送ったのではないでしょうか。また、先輩がダメ教師であってもその生活を守ってあげるために校長に交渉に行っています。教職員組合がない時代に、自分の教育信念にだけ忠実で、校長の非教育的な意向などは歯牙にもかけない青年教師丑松は、教師である私の理想です。

 「破戒」は上梓されてから百年経ちましたが、半世紀近くは受難の時代でした。そうだからこそ、運動の呪縛から解き離れた「破戒」は、21世紀のこれからは素直に読まれ続け、感動を呼び続けるようになると私は確信しています。

 「破戒」が差別小説だとされたのは、ちょうどオール・ロマンス事件と軌を一にしています。戦前の水平社運動の活動家は、「破戒」にむしろプラスの影響を受けていた人が多かったのです。それが戦後になって、差別小説と見なされるようになりました。

 1954年、解放委員会は「破戒」を差別小説とする声明を出しますが、この声明とオール・ロマンスの「糾弾要項」の筆法は、同工異曲というか双生児のようです。これらの根幹をなしているのは、日本共産党の「51年綱領」(注1)です。現在の日本共産党は「51年綱領」ではなく「51年文書」だとしています。スターリンの指示を受けた徳田球一・野坂参三らがつくった文書であり、党の正式な綱領ではないのです。オール・ロマンスの「糾弾要項」は、冒頭から、その「51年綱領」と同じ文章なのです。

 オール・ロマンス事件が起こるのは1951年10月ですが、同じ年の8月、9月くらいの「京都新聞」と「夕刊京都」の記事をずっと見ていくと、紙面はサンフランシスコ平和条約締結関連の賛美記事一色なのです。日米友好、サンフランシスコ平和条約、つまり全面講和でなく片面講和を賛美する記事ばかりなのです。

 たとえば、「夕刊京都」1951年9月10日付記事「新生日本いよいよ発足」「講和、安保両条約調印終了」というような時期です。その一方で、9月5日付け1面記事には「今暁、全国一斉に日共の首脳部を急襲」といった記事も掲載されています。

 しかし、当時の国民の半数近くは全面講和を支持していたはずです。条約署名のため吉田茂首相が訪米したことを批判的に受け止めていた人も多くいたはずなんです。同時期、京大では全学自治会同学会による天皇事件(同年11月)(注2)も起こっていますが、「京都新聞」は客観報道をせず、同学会を徹底的に批判しています。1951年10月5日付「京都新聞」夕刊は、「新聞週間記念 共産党批判大講演会」(京都新聞ホール、入場無料)の催しを告知しています。講師と演目は、佐野学(国家と自衛)・三田村四郎(日共新綱領の批判)で、社会の公器のはずの新聞が特定のイデオロギーの宣伝媒体に成り下がっています。

 つまり、1951年当時というのは、マスコミにより世論が、一定方向へ念入りに形成されつつあった時期だったといえると思います。「陛下親しく京都御巡幸」(11月13日付け)、「同学会に解散命令」(11月15日付)、「チャタレイ事件に求刑」(11月23日付)という「戦後第一の反動攻勢期」であったのです。

 したがって、京都のいわゆる民主勢力も、「右より」の嵐の中で逼塞(ひっそく)していた時期だったのではないかと推測します。そういった時期に、日本共産党が「51年綱領」を発表したわけです。このとき、多くの共産党員やその支持者らはこの綱領を心に抱いて、日本社会の変革はどうあるべきか考えたと思います。文学者でいえば野間宏がその代表でしょう。

 ここからは私の仮説なのですが、当時京都市職員だった中川忠次さんも半秘密裏に出版されていた「51年綱領」を入手し、読み、影響を受けていたのではないかと思います。そして、自分は市職員として何ができるか考え模索をしていたのではないかと思うのです。

 そういう時期に「小説特殊部落」が掲載された『オール・ロマンス』を手にした。作者を調べたら市職員だった。彼にとっては「反撃」の絶好のチャンスと考えたとしても、不思議ではなかったのではないかと思います。そして、そう考えたのは当時中川さんだけではなかったと思います。

 当時の新聞をマイクロフィルムと原紙で見ますと、オール・ロマンス事件についての報道はほとんどなされていません。1951年11月23日付の「夕刊京都」に、「問題化したバクロ小説/特殊部落/地元代表、市に抗議/架空事件に実在の土地、人名/筆者は保健所吏員」とあるだけで、同紙の事件に関する報道はこの記事ひとつだけなのです。もうひとつの有力な地元紙である「京都新聞」に至ってはオール・ロマンス事件どころか部落問題の記事すら見当たりません。

 つまりオール・ロマンス事件と今日呼んでいますが、当時、これは社会問題となっていなかった。あくまで、市役所内部の問題に過ぎなかったと言えます。「オール・ロマンス闘争などなかった」という人もいますが、たしかにそういった面はあると思います。

寺園 秦さんは、様々な苦心の末、作者杉山清一さん(筆名)のご家族(長男)を探し当て、お話になられています。杉山清一さんあるいは事件について、息子さんはどのようなことを言われていましたか。

 息子さんの話によると、事件当時4、5歳だったそうで、清一さんは市役所退職後中小企業を転々としていたそうです。お父様が探偵小説作家だったこともご存じなく、事件についてお父様から直接聞かされることはなかったそうです。

 私の訪問への息子さんの御対応は、大変ご迷惑そうな御反応でした。おそらく見知らぬ人間がいきなり訪ねて来たので驚かれたからだと思います。当然の御反応でしょう。事前に、私が書いた論文や、お父様の名誉回復を図りたいと思っていることなど面会の趣旨をしたためた手紙をお渡ししていたのですが、あまり詳しく御尋ねは出来ませんでした。

 御遺族の方が今も不愉快な思いをされていることを私たちは思い知るべきだと思います。

寺園 本日はありがとうございました。

(2011年3月15日・大阪府立大手前高校内で)

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***編集注***

注1 日本共産党の「51年綱領」(「51年文書」) 1951年8月19日より21日まで、徳田球一ら主流派だけで開催された共産党第20回中央委員会総会に提出された綱領。日本の革命を反帝反封建の民族解放民主革命と規定し、植民地・従属国型革命を想定した内容だった。同時に、日本の革命の平和的発展の可能性を全面的に否定し、4全協で採択された軍事方針を正当化し、山村工作隊活動や火炎ビン闘争などを展開する極左冒険主義方針の根拠となった。

注2 京大全学自治会同学会による天皇事件 1951年11月12日、昭和天皇が京大訪問時に起こった事件。京大全学自治会同学会は、天皇を「平和を守れ」の歌の合唱で迎え、再軍備問題ついての公開質問状を渡そうとしたが、警官によって排除された。大学側は学生8人を処分し、同学会の解散を命じた。


 本インタビュー記事の資料として、「小説特殊部落」と「吾々は市政といかに斗うか──オールロマンス差別糾弾要項」の全文を以下に掲載しています。併せてお読みください。なお、両文書とも、『朝田善之助全記録6』(財団法人朝田教育財団発行、1989年)からの抜粋です。ただし後者の「糾弾要項」で作者杉山清一さんの本名が明示されている箇所は黒塗りにしています。

「小説特殊部落」全文(その1その2
「吾々は市政といかに斗うか──オールロマンス差別糾弾要項」全文(その1その2その3


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