先日、部落問題研究所文芸部会で活躍されている秦重雄さん(大阪府立大手前高校教員)からお話を聞く機会がありました。
秦さんは、解放運動によって「差別小説」の烙印を押された作品の再検証を長くやって来られた研究者で、「〈差別小説〉『特殊部落』を検証する」(『部落問題研究』144号、1998年)などの論文があります。秦さんから驚くべき本が刊行されていることを教えていただきました。
若狭邦男著『探偵作家追跡』(日本古書通信社、2007年)です。
著者の若狭さんは探偵小説研究家。膨大な探偵小説雑誌の蒐集家です。この本も、これまで蒐集してきた書誌をもとに、有名、無名を問わず、さまざまな作家の足跡を訪ね歩いていくという内容。作家らとの出会いとともに、おそらく、本文中で紹介される詳細を究めた書誌情報に大きな魅力がある本なんだろうと思います。まあいわば「オタク」の世界ですね。
鮎川哲也、江戸川乱歩、小栗虫太郎といった著名人にまじって、杉山清詩という名前の作家が登場します。実はこの人物、部落問題の解説書、入門書には必ず出てくる「オールロマンス事件」の発端となる小説を執筆した、杉山清一氏その人なのです。
1951年に起こった「オールロマンス事件」(「オールロマンス闘争」ともいう)は、戦後の部落解放運動史上、また同和行政史上、もっとも重要な事件のひとつでしょう。『オール・ロマンス』という雑誌の同年10月号に掲載された「小説特殊部落」の内容が、部落差別を助長する「差別小説」だとして、当時の部落解放全国委員会(後の部落解放同盟)が問題視、作者が京都市職員だったこともあり、京都市に対する激しい糾弾闘争を展開し、結果、京都市において本格的な同和行政実施という大きな成果を勝ち取ることになります。
事件は、1946年に立ち上げたものの、見るべき成果をなく低迷していた解放委員会の最初の「勝利」であるだけでなく、戦後の解放運動と同和行政に大きな影響を与えました。次の評価がおそらく一般的なものでしょう。
作者である職員個人の責任ですまそうとする京都市に対して、京都府連は、誤った認識を助長するような部落の低位な生活実態に対してなんら対策もとらずに放置してきた京都市にこそ責任があるとして、「行政の責任」を鋭く追及した。
(中略)
この事件は、差別事象を行政闘争と結合させてたたかうという運動の先駆をなしたものであり、その後の解放運動を大きく発展させる第一歩となったという意味で画期的な意義をもつものであった。
しかし反面、この事件はまた、あまりに「行政の責任」を絶対化しすぎ、国と地方の行政の区分、革新自治体と保守自治体の違いをともすれば無視して、「行政=主敵」論の立場から、解放運動を行政闘争の枠内にとじこめてしまう危険性をも多分にもっていた。(兵庫部落問題研究所編『部落問題用語解説〔改訂増補版〕』1995年より)
「オールロマンス事件」についてはここ20年の間に、研究者レベルにおいてはさまざまな議論がなされてきています。非常に興味深い議論もあるのですが、しかし、その大半は、「小説特殊部落」は「差別小説」であるという前提のもと行われています。わたしは、この前提こそ大きな誤りがあると考え、「小説『特殊部落』のどこが差別か──オールロマンス闘争を賛えるのはもうやめよう」(マリード83号)と主張したこともありました。
そうなんですね。この小説は差別でも何でもないのです。それなのに運動と行政によって「差別」にされてしまい、作者は「差別者」の烙印を押され、京都市を退職せざるを得ませんでした。作者杉山清一さんがその後どういう人生を送ったか、不明です。というか、運動関係者(研究者含む)はもちろん行政関係者も、「差別者」の行く末なんかに関心を示すわけありません。
前置きが長くなりました。若狭さんは『探偵作家追跡』において、その杉山清一さんを尋ね当て、さらに驚くべきことに、インタビューまでしているのです。
同書より、若狭さんと杉山さんのやり取りを一部紹介しましょう。若狭さんが杉山さんに面談したのは1989年。事件から38年ぶりに姿を現した杉山さんです。
杉山「その事件後、京都市役所を退職し、その後京都市内を転々とし、勤務先もかえました。ある人にお世話になっています」
若狭「当時の『探偵作家クラブ会報』に本名と懺悔を述べておられますが…」
杉山「そうです。書いています。オール・ロマンス誌の編集部へ問合せた人がいて、そこで私の本名が明らかになりました…。それでその結末を会報に書くことになったのです」
杉山「私は、加茂川堤沿いの塵芥の山に目をうばわれたので、市役所では衛生関係の仕事をしていたためか、これを処理したいという思いでした。衛生に悪いということでしたね、今でもそう思ってます…。そのため、それを描写して、小説よりもルポルタージュの形をとることになりました」
杉山さんが当時の話題を避けたがっており、また、著者の若狭さん自身、おそらく部落問題や「オールロマンス事件」自体にとくだんの関心や知識があったわけではなさそうなので、当時明らかとされていない重大な事実が、このインタビューの中で語られているというわけではありません。
それでも、たとえ数十年経たあとになっても、杉山さんの思いに耳を傾けようとし、それを実践した若狭さんの熱意に、わたしは敬意を表したいと思います。同時に、若狭さんが、解放運動家や研究者、行政職員あるいはジャーナリストではなく、一探偵小説研究家だったという事実を、重く受け止めなければならないと思っています。
若狭さんは、別れ際に杉山さんが言った次のことばが、今も強く印象に残っていると書いています。
「私のことは忘れてください。何もかも失ってしまいました」
くり返し強調しておきましょう。仮に杉山さんがひどい罪を犯し、あるいは悪質な差別行為に及んだというのなら、同情することはないかもしれません。しかし、彼の小説は差別でも何でもなかった。当時の、そして戦後の部落解放運動、同和行政の犠牲者だったといえるのです。「事件後の同和事業によって、部落の環境が大きく改善したからいいではないか」といった言い訳が成り立つものではないでしょう。
今となっては遅過ぎますが、部落解放運動や行政は、杉山さんの最後のことばにこたえる責任があると思います。
今回この本『探偵作家追跡』の存在を教えてくださった、秦重雄さんも、若狭さんとは別の方法で杉山さんと面談しようとされていました。そしてついに、2003年杉山さんの長男と連絡を取ることができたのです。だがときすでに遅し、杉山さんは1999年に亡くなられていました。長男には「杉山清一さんの作品は差別小説ではなかった」と伝えられたそうです。